食にまつわる発信をしていくにあたって「食べる」とは何かを考えたい(2)

こんにちは

 

最初のブログをアップしてからずいぶん間を置いてしまいました。

 

決して怠け癖というわけではなく、最初のブログに

ノープランで大それたタイトルをつけ、なおかつ「(2)に続く」などと

結んだために勝手にハードルが上がってしまいまして(恥)。

 

だからすみません、

タイトルに沿った話はしません。先に謝らせてください。申し訳ありません。

 

ECで売れそうな食品を選ぶ

さて、僕は今、本業の方でWEBのECサイト構築が、まさに佳境に入りつつあります。

業種はマクロビ系のフードストア展開。「身体にやさしい」=「美味しい」をモットーにやっております(これについては、おいおい)。

これまで実店舗しかなく極めてドメスティックに営業していましたが、

満を持して全国に向けてこだわりの品ぞろえを披露していこうという意気込みです

あ、これは会社的な意気込みですからね。

というわけで、Storyやら商品紹介やら記事を全て担当させていただくわけです。

 

で、今ちょうど「商品選定」のプロセスに差し掛かっているわけです。

これがなかなか大変で・・・約6000アイテムの中からECで売れそうなものを

選んでいるのですが、まあ関係者それぞれの思惑もありね・・・

基本方針として「売れるもの」でなく「買っていただきたいもの」を、

というのはあるわけです。そりゃ売り上げが増えるに越したことはありませんが、

やはり売場のコンセプトは明確にしないと

いくら売れそうだからといって店のオシでないものは敢えて出さないというこだわり。

じゃあ普段実店舗では、あまりオシていない商品、積極的に売りたくない商品も並べているのかということになりますが、まあその辺はいろいろ事情がありまして。

小規模な個人商店、専門店ならそういうのもアリですが、そこそこ広い店舗に

商品スカスカというわけにもいかないし、お客様から「こういうのはないの?」という声があまりに多ければまあ、扱いたくはなります。

 

そこでせめてECでは「売りたいものだけ」にしよう、という。

そうはいっても売れないと話にならないし、お客様が買いたい商品がないと

サイトの注目度も上がらないので、

ここは社歴の比較的浅い僕が、こだわりの薄さを発揮して(?)扱い商品の中から

売れそうなものをピックして提案するわけです。

 

これはなかなか難しい。

 

いわゆる売れ線の商品というのは競合が多く後発の我々には不利です。では実店舗の売れ線商品ならどうかというのも今更感があり、上位の商品はとてもネットで売れそうなにおいがしません(まあ基本的に実店舗とネットの売れるものは別物)。

 

結局セオリーから「露出の少ないニッチなもの」「オリジナル性の高いもの」「地域色の濃いもの」などを選びます。その中で僕が重視するのは

ありきたりですが「商品名」と「パッケージ」のビジュアルです。

ネットで買い物をする場合は買う側は受ける情報が限られていますからね。

まあ写真は大事。

 

ただ僕が写真やビジュアルよりも重視するのは商品名、ネーミングです。

やはり引っ掛かりのある商品名、商品名だけで必要十分な情報が入っている商品は

ECでは大事ですよね。

 

例えば最近のヒット商品で言えば

「焦がしにんにくのマー油と葱油が香るザ★チャーハン」(味の素)

などは実に秀逸ですよね。ウチで扱うわけではないですが、

こういう商品名だけで情報が伝わり、なおかつ「ひっかり」があってオリジナル性があるものは、やはり検索されますから。

NB商品であり、ウチでは扱いのない商品ですが、

やっぱり大手はさすがに上手だと思います。

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一方で地方の小さなメーカーでも「ウマいな」と思えるネーミングは結構見ますね。

僕が最近感心したのは「夜の読書のビスコッティ」という商品です。

これ、そそられるネーミングでしょ?

福島県の「すとう農産」の商品ですが、自社でこだわり栽培した玄米を原材料に使用したビスコッティです。

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読書の時間を充実させるためにこれを食べるのはいかが?という提案。

この場合、満たされるのは「食欲」由来でない充実ですよね。

「食品」の購買意欲喚起において、「味」や「健康機能」「製法」だけでなく「用途」「動機」を前面に出して提案する手法は、なるほどな、と感心させられるわけです。

 

しかもできるだけニッチな目的が良い。検索されやすいし「ひっかけやすい」から。

 

このビスコッティなどはまだ扱いがないのですが、

基準さえ満たせば僕なら優先的に入れたい商品です。

 

「食べたくなる」とは何なのか

そう考えると、人が「食べたくなる」という衝動、動機とはいったい何なのか。

そんなことをふと考えるのです。

 

「美味しそう」は当然あるとして、機能性を伴うなら「身体が欲しがる」や「ダイエットに」などは当然あるでしょう。ダイエットや健康などは細かく言えば、昨今話題になっているギルトフリーの「罪悪感が低い」みたいなものもあるのでしょう。

 

そうした中で「空腹を満たす」や「食欲にこたえる」という目的とは別に、

食べ物についても「読書のお供に」や「こういうのを食べるスタイルがおしゃれ」など

「用途」というのが行動指針、選択基準として確かにあるのだなと感じます。

メーカーの商品開発や企画の仕事をしている方、マーケティングの周辺にいらっしゃる方々には「何を今さら」と笑われそうですが、

僕は今さら改めて感じたわけです。

人の「食べたい」欲求は食欲とは関係ないところにも存在するのだ、と。

 

これはもちろん「最終的に食べる」が前提ですよ。

 

ラーメン好きの人が「豚骨スープのふろに入りたい」とか

何かで優勝したらシャンパンファイトやビールかけをしたいとか

ドMの人が「あのしなやかなゴボウでしばかれてみたい」とか

そういう欲求はまた別の話です。

受験シーズンに出る「きっと勝っと(キットカット)」みたいな

こじつけの、ある種の義務感が伴う縁起物とかも違いますよ。

 

「悲しいことがあったらこれを食べたい」とか

「〇〇をするときにはこれを食べながらが良い」という二次欲求は絶対あるのです。

おそらく既にマーケティングの業界では一般的なのでしょうけど、

無知な僕は妙に感心させられた「夜の読書のビスコッティ」なのです。

本来の人の欲求に根差した(でも食欲ではない)みたいな、

それでいて「食べさせる」という。

何か言い回しが難しいなぁ。

 

そういえば以前、漫画喫茶のフードメニューに

山盛りフライドポテトの写真キャプションで

「漫画のお供に」

と謳っていたのはいたのは、かなりそそられる文句でした。

そんなもの食べたら指に脂がついて漫画が汚れるので

フォークで食べなければいけない。

漫画を読むときには明らかに向いていなそうな食べ物なのですが、

無性に「漫画といえばフライドポテトでしょ」は刷り込まれるのです。

 

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そう考えると人の「食べる」という行動や意思は不思議ですよね。

人は空腹を満たすためだけに食べるわけではないのだなあ、

と改めて感じたのでした。いや前回ブログに書いたブリザリアンの人たちのことを

考えると、「食べる」行動における「食欲や空腹を満たすため」の動機は、

もしかした全体のうちのほんの一部なのかもしれないとさえ思えてくるのです。

 

「〇〇のために〇〇を食べたい」「〇〇の時に〇〇を食べたい」

この切り口は、今後ブログ書くにあたって、良い切り口になりそうで、

今後も掘り下げていきたいテーマです

 

 

 

 

 

「食」にまつわる発信をしていくにあたって「食べる」とは何かを考えたい(1)

はじめまして!

 

認定フードアナリストとして食にまつわるブログを開設します。

良かったら読んでやってください

 

グルメブログは卑しいか

とはいえ

いわゆる「グルメブログ」を書くことに、かなりの抵抗がある。

それは、僕が「日本人の中でも指折りの美文家」と勝手に敬愛している

故・中島らも氏のエッセイの中に

「グルメリポーター、美食評論家の類は、自らの口卑しさをひけらかす

恥ずべき職業」というような一文があり、読んだ当時は「まことにそのとおり」

などと賛同していたものだった。

確かに食における自分の嗜好を世間に向けてあけっぴろげにするという行為は

エロティックで破廉恥なことといえるかもしれない。

それを恥ずかしげもなく「おぁ、この脂の甘さよ」とか「嗚呼、のどごしの清冽さが」とか、なんとも猥褻じみた表現で自分の嗜好をさらけ出し押し付けることを生業とするおぞましさたるや

 

それがまさか、自分が「食にまつわる発信をする」という口卑しい立場になるとは・・・思わなかったなぁ。

しかも当時存在すらしなかった「フードアナリスト®」なる立場からなんて。

 

この中島らも氏の酔いどれぶりは、つとに有名で作品を通しても「酔い」に向かうべくの飲酒シーンが頻繁に登場する。飲酒時は何も食べない。「酒の肴」はいらない。

エッセイの中に、中島氏が若い時分に「のっぴきならない関係」になった女性と

蕎麦屋に行き、気まずい空気の中で盃を重ねるが、まんじりとしない中で目の前にあるもりそばに二人とも手を付けずノビてグダグダになったという内容があった。これなどは状況が特殊だから例にはならないかもしれないが、氏のエッセイには何かを食べている様子の表現が非常に少ない(何かを吸っているところや何かに酩酊しているところは多々あるが)ことあるごとに「酒呑みは食わずに呑むもの」的な表現が登場している。「酒で栄養分を摂取している」という時期もあり、食べること自体の否定すらも垣間見える。これを読んだ若い僕は、「なんて潔いのだ」と思っていた。

 若かった僕には「食べる=醜い」「食べない=美しい」が刷り込まれた。

 

不食」という生き方

もっとも、大人になるにつれていろいろなことに抗えず

「かっこいい不食」を貫けずに、どんどん中年太りしていった僕なのだった。

元来の快楽主義、欲求に対する抗力のなさ、すぐに自分の行為を合理化する性格・・・

挙句の果てに「食文化の発信」を生業にしてしまうわけなのでした。

 

ところで世の中には食べることをやめた「不食」という生き方があるらしい。この「不食」は、ダイエットやデトックス目的の「断食」とは一線を画すもので「空腹」に打ち勝つことをしない、要は「腹が減らない」からだになるものだ。何年間にもわたって「食べない」で(水分は摂る)、何の支障もきたさずに社会活動を送る人たちがいるのだ。ここで考えるのが「栄養を送らないでも体を壊さないのか」ということだ。この人たちによれば「人は食べることで細胞を老化させている」ということなのだ。現に、この手の人の本には「食べなくなってからジョギングのタイムが伸びた」とか「身体の調子が良くなった」的なことが書いてある。「食べない」と「老いない」のだそうで、「老化」は「食べるから」発生するのだという。免疫力も軒並み上がるらしい。

 

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果たして「不食」は生物学の理論的に可能なことなのか。驚くことに研究機関に

よれば、それは可能なのだという(腸内でアミノ酸を生成する能力があるとか)。

もっとも僕自身は、こうした不食の人たち(ブリザリアンというらしい)と長い間一緒にいてずっと監視していたことはないので″本当のところ”がどうなのかはわからない。

 

「食の情報を発信する」という立場ながら、この「食べない人たち」に対しては

ものすごく関心が惹かれる。「空腹感がない」というのは、どういう感覚なのだろうか、と。確かに日本語ではhungryを「腹が減る」となるが、別に腹がすり減って

そぎ落とされるわけではないし、腹の内容物が減滅して収縮している(いくらかは

収縮しているのかもしれないが)わけでもなさそうだ。空腹であるのは、脳がそういう信号を出すからに他ならない。そうか、腹が減ったと思っていても、腹は減っていないのだ(こう書くとワケがわからないが)。

 

やはり「不食」の方が生き方としてカッコイイのか。いやいや、これ「武士は食わねど高楊枝」的なことではないからね。空腹の信号が出なくなった人たちだからなぁ・・・

世の中で「不食はかっこいい」に定義されても「僕はとりあえずいいかなぁ」って

思う。

だってさー、この人たちの人生からは「腹減った」という感情(もはや感情と表記させていただく)がカットされるわけだが、カットされる感情とか欲求って、それだけに留まらないんじゃない?当然「美味しい」や「不味い」の感情も放棄することを意味する。もちろん「まったりとした」や「脂が甘~い」などもっての他だ。

いやいや、カットされるのって人間の三大欲求の「食欲」に関することだけじゃないだろう?不食になって空腹を感じなくなった人が、果たして「性欲」だけ敢えて残しておくだろうか、それこそ不自然だろう。とうぜんそっちも放棄しているのではないかと思う。そうだとすると「腹減った」「美味しい」「不味い」に加えて「気ん持ちい~」や「ウホっ、ムラムラしてきた」なんかも失われるわけだ。そのへんどーなのだろうか

聞いてみたい。「俺は食べることをやめたけど、ヤルことはヤッてるよ」というなら、それはそれで興ざめである(勝手なのは重々承知だ)。睡眠欲に関しては、さすがにあるのだろう。「眠くならない」ということはなさそうだ。

 

要するに人の「欲求→快楽」というのは、それぞれどこかでリンクしているのではないか。人間の食は「快楽」への邁進でもある。決して「美食への欲求」のようなハードルの高いものでなくてよい。「咀嚼」する快楽や「飲み込む」快楽だってある。ただただ満腹になる快楽もあるだろう。激辛好きにドMが多いと言われるのも、そう考えれば相関関係が理解できる

 

僕が今、フードアナリストになり、食に関する情報発信をしていこうというならば、

ブログに書き綴っていきたいのはこういう「食べて気持ちいい」という快楽指向の

内容である。

ただ単に「美味しかった」「美味しくなかった」は、もういいかなと思うわけです。

 

(2)に続く