「食」にまつわる発信をしていくにあたって「食べる」とは何かを考えたい(1)
はじめまして!
認定フードアナリストとして食にまつわるブログを開設します。
良かったら読んでやってください
グルメブログは卑しいか
とはいえ
いわゆる「グルメブログ」を書くことに、かなりの抵抗がある。
それは、僕が「日本人の中でも指折りの美文家」と勝手に敬愛している
故・中島らも氏のエッセイの中に
「グルメリポーター、美食評論家の類は、自らの口卑しさをひけらかす
恥ずべき職業」というような一文があり、読んだ当時は「まことにそのとおり」
などと賛同していたものだった。
確かに食における自分の嗜好を世間に向けてあけっぴろげにするという行為は
エロティックで破廉恥なことといえるかもしれない。
それを恥ずかしげもなく「おぁ、この脂の甘さよ」とか「嗚呼、のどごしの清冽さが」とか、なんとも猥褻じみた表現で自分の嗜好をさらけ出し押し付けることを生業とするおぞましさたるや
それがまさか、自分が「食にまつわる発信をする」という口卑しい立場になるとは・・・思わなかったなぁ。
しかも当時存在すらしなかった「フードアナリスト®」なる立場からなんて。
この中島らも氏の酔いどれぶりは、つとに有名で作品を通しても「酔い」に向かうべくの飲酒シーンが頻繁に登場する。飲酒時は何も食べない。「酒の肴」はいらない。
エッセイの中に、中島氏が若い時分に「のっぴきならない関係」になった女性と
蕎麦屋に行き、気まずい空気の中で盃を重ねるが、まんじりとしない中で目の前にあるもりそばに二人とも手を付けずノビてグダグダになったという内容があった。これなどは状況が特殊だから例にはならないかもしれないが、氏のエッセイには何かを食べている様子の表現が非常に少ない(何かを吸っているところや何かに酩酊しているところは多々あるが)ことあるごとに「酒呑みは食わずに呑むもの」的な表現が登場している。「酒で栄養分を摂取している」という時期もあり、食べること自体の否定すらも垣間見える。これを読んだ若い僕は、「なんて潔いのだ」と思っていた。
若かった僕には「食べる=醜い」「食べない=美しい」が刷り込まれた。
「不食」という生き方
もっとも、大人になるにつれていろいろなことに抗えず
「かっこいい不食」を貫けずに、どんどん中年太りしていった僕なのだった。
元来の快楽主義、欲求に対する抗力のなさ、すぐに自分の行為を合理化する性格・・・
挙句の果てに「食文化の発信」を生業にしてしまうわけなのでした。
ところで世の中には食べることをやめた「不食」という生き方があるらしい。この「不食」は、ダイエットやデトックス目的の「断食」とは一線を画すもので「空腹」に打ち勝つことをしない、要は「腹が減らない」からだになるものだ。何年間にもわたって「食べない」で(水分は摂る)、何の支障もきたさずに社会活動を送る人たちがいるのだ。ここで考えるのが「栄養を送らないでも体を壊さないのか」ということだ。この人たちによれば「人は食べることで細胞を老化させている」ということなのだ。現に、この手の人の本には「食べなくなってからジョギングのタイムが伸びた」とか「身体の調子が良くなった」的なことが書いてある。「食べない」と「老いない」のだそうで、「老化」は「食べるから」発生するのだという。免疫力も軒並み上がるらしい。
果たして「不食」は生物学の理論的に可能なことなのか。驚くことに研究機関に
よれば、それは可能なのだという(腸内でアミノ酸を生成する能力があるとか)。
もっとも僕自身は、こうした不食の人たち(ブリザリアンというらしい)と長い間一緒にいてずっと監視していたことはないので″本当のところ”がどうなのかはわからない。
「食の情報を発信する」という立場ながら、この「食べない人たち」に対しては
ものすごく関心が惹かれる。「空腹感がない」というのは、どういう感覚なのだろうか、と。確かに日本語ではhungryを「腹が減る」となるが、別に腹がすり減って
そぎ落とされるわけではないし、腹の内容物が減滅して収縮している(いくらかは
収縮しているのかもしれないが)わけでもなさそうだ。空腹であるのは、脳がそういう信号を出すからに他ならない。そうか、腹が減ったと思っていても、腹は減っていないのだ(こう書くとワケがわからないが)。
やはり「不食」の方が生き方としてカッコイイのか。いやいや、これ「武士は食わねど高楊枝」的なことではないからね。空腹の信号が出なくなった人たちだからなぁ・・・
世の中で「不食はかっこいい」に定義されても「僕はとりあえずいいかなぁ」って
思う。
だってさー、この人たちの人生からは「腹減った」という感情(もはや感情と表記させていただく)がカットされるわけだが、カットされる感情とか欲求って、それだけに留まらないんじゃない?当然「美味しい」や「不味い」の感情も放棄することを意味する。もちろん「まったりとした」や「脂が甘~い」などもっての他だ。
いやいや、カットされるのって人間の三大欲求の「食欲」に関することだけじゃないだろう?不食になって空腹を感じなくなった人が、果たして「性欲」だけ敢えて残しておくだろうか、それこそ不自然だろう。とうぜんそっちも放棄しているのではないかと思う。そうだとすると「腹減った」「美味しい」「不味い」に加えて「気ん持ちい~」や「ウホっ、ムラムラしてきた」なんかも失われるわけだ。そのへんどーなのだろうか
聞いてみたい。「俺は食べることをやめたけど、ヤルことはヤッてるよ」というなら、それはそれで興ざめである(勝手なのは重々承知だ)。睡眠欲に関しては、さすがにあるのだろう。「眠くならない」ということはなさそうだ。
要するに人の「欲求→快楽」というのは、それぞれどこかでリンクしているのではないか。人間の食は「快楽」への邁進でもある。決して「美食への欲求」のようなハードルの高いものでなくてよい。「咀嚼」する快楽や「飲み込む」快楽だってある。ただただ満腹になる快楽もあるだろう。激辛好きにドMが多いと言われるのも、そう考えれば相関関係が理解できる
僕が今、フードアナリストになり、食に関する情報発信をしていこうというならば、
ブログに書き綴っていきたいのはこういう「食べて気持ちいい」という快楽指向の
内容である。
ただ単に「美味しかった」「美味しくなかった」は、もういいかなと思うわけです。
(2)に続く